東日本大震災からもう8年-災害を考える

あの日、2011年3月11日14時46分18秒

あれから8年も経ちました。

本当に大きく揺れました。

阪神大震災も経験しています。
その時は布団の中だったので、「もうだめ」とあきらめましたのを覚えています。
腰が抜けたというやつです。

しかし、3.11は昼間で出勤中です。
これはこれで、恐怖感がまったく違います。

それでも揺れ始めから10分間のうちに、
やれることやりましたから、パニックにはならずに済みました。

火の元の確認。
水と食料の確保。
身近な通行人の安全確保と誘導などなど。

あれだけ揺れてたのに、よくできたと思います。

最期を迎える恐怖感と覚悟

人間は最期が近付くと、
過去の思い出が走馬灯のように頭に浮かんでくると言われます。

3.11の時は、それが思い浮かんできていなかったので、
すぐに、生き残るための行動をしないといけないと覚悟を決め、
行動したのを覚えています。

遠くを見ると、ビルとビルがぶつかっています。
道路が波打ってきて、電信柱が腰の高さまで上がってきて、
思わず顔を覆いました。

それでも、不思議と腰が抜ける感覚がなかったのは幸いです。
けっこう、いろんな人のためにも動けましたし。

街を飲み込む大きな波

しばらくすると東京都港区でも津波警報が発令されました。
津波と言われても、正直イメージできません。
近所のビルとマンションに鍵を開けておいてもらうよう頼みに行きました。

ちょうどテレビのスイッッチを入れたのもそれくらいです。
テレビの画面をみて言葉を失いました。
「波が街を飲み込んでいってる。。。」

大きな波が、家や走行中の車をどんどん飲み込んでいく映像をみて、
しばらくの間、何も考えられなくなってしまいました。

こんなことが起こるなんて。

しかし、東京でも頻繁に津波警報がアナウンスされます。
東京はビルもマンションもそこそこの高さがあるので、
なんとかなるだろうと思いましたけれど、
到達時間が過ぎるまでは、まったく安心できませんでした。

「帰宅難民」という言葉

夕方になるにつれ、街中がおかしなことになっています。
スーパー、コンビニでは飲食物が売り切れはじめました。
自動販売機も中身がありません。

帰路についた人たちでしょうか、
普段、みられないくらいの人が道を埋め尽くしています。
公共交通機関は動いていないので歩いて帰られるんでしょうか。

帰宅難民という言葉はこのときに生まれたんでしょうか。

職場から住んでる部屋まで普段は5分のところ、20分もかかりました。
歩道が人、人、人で渋滞するなんて。

自動車も全く動いていません。

かなり遅い時間になって地下鉄から動きはじました。
歩いているだろうと思われる同僚にメールしたのを覚えています。

福島の事故

翌日からのニュースで被害の状況が徐々に伝わりはじめました。
被害は甚大です。
街路樹や電柱につかまっている人、屋上に避難した人たちのことを映像で知ります。

自然の中で、人の無力さを知るばかりです。
それぞれ人の運命の境目は、いったい何なのかと思いました。

そして数日後に福島の発電所で事故が起こりました。
いや、地震当日には起こってたんです。

線量でどれくらいの被害が出るのかというのは今もわかりません。
でも、爆発するということが恐かったんです。

今ならわかります。
地震は自然災害なので、覚悟もできます。
しかし、発電所の事故は、人災ですから、
同じように予知ができなくても、覚悟ができません。

爆発したときには、飛行機に乗って宮崎に向かっていました。

宮崎市の備え

東日本大震災でほとんど揺れていなかったところがいくつかあります。
宮崎もそのひとつです。

おそらくテレビを観たり、ラジオをつけていなかったら、
東北で起こっていることを知らなかった人も多いでしょう。

宮崎県は、半分が海に面しています。
南海トラフの地震は直撃すると言われています。
津波の被害も確実に出ます。

そういうことにもかかわらず、
海辺に近いところでの宅地開発が進んでいるのです。
かなり多くの人が住み始めました。

東日本大震災スケールの津波でも、
宮崎市はかなり奥地まで影響があると予測されていますが、
おかまいなしです。

30年以内に起こるか起こらないかの大地震。

備えて住むか、備えずに住むか。
それぞれの家庭の考え方でしょう。

私は山側に住んでいます。

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